神戸こどもblog

保育士の資格がとれる専修学校「神戸こども総合専門学院」のブログです。六甲山の西、標高407m、豊かな自然のなかにあります。
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「ご存じですか?」という表記

 きのう、「ことば」について書いたので、もう一つ気になることを。
 「ご存じですか?」という表記について。
 「知らぬ存ぜぬの一点張り」とは強情な態度。ここに「存ぜぬ」がありますね。これは「存ずる」の活用形です。「私はその方を存じ上げている」の中には「存じ」という言葉がありますが、これも「存ずる」(存じる)の活用形です。そして、「ご存じですか?」も、これまた同じ。
 ところが、「ご存知ですか?」という使われ方のほうが多く見られる。「知」という漢字を当てたくなる気持ちはわかりますが、これは誤用なんです。
 本や文章を読んでいるとき、切々と訴えていて、その結びに「ご存知でしたか?」と来られると、私は拍子抜けしてしまいます。
 今では誤用のほうが多数派のような気がしますが、「ご存じですか?」という表記は身につけて欲しいと思っています。

障碍の「碍」という用字について

 今ではもう珍しくありませんが、「障害」に対して「障碍」という用字を使おうと私が認識したのは、1983年2月でした。今から25年以上も前のことです。その頃から、障碍児教育に熱心な人たちに呼びかけて来ましたが、広がることはありませんでした。
 それが今では、「障がい」という表記がよく目につくようになりました。「碍」を「がい」と仮名書きする理由は、おそらく「碍」が常用漢字表にはない漢字だから、公文書で使用できないからと私は推測しています。
 以下、少し長くなりますが、「障碍」と表記する理由について述べます。

 「心身にショウガイがある」という表現のとき、私は「障碍」とします。
 「碍」は、常用漢字表(以前は当用漢字表)にない文字です。こうした表にない漢字を「表外字」といい、表外字は、同じ音で意味の近い漢字を当てることとされました。このようにして代わりに当てられた漢字を「代用漢字」といいます。つまり、「障害」は代用漢字(または代用表記)です。
 常用漢字という制度は、多すぎる漢字の使用を制限するものです。これは、法的に強制されるものでなく、公文書やマスコミ系の新聞で制約として実行されています。漢字制限については、特に文壇を形成する人たちに批判の的とされていますが、私は、原則的には賛成です。文字の使用は特権階級のものでなく、誰もが自らの能力と、おかれている立場や環境の中で誰に制約されることなく行使できる自由といえるものです。ですから、「漢字」に対して、「正しい漢字」とか、「正しい筆順」など、文字を獲得した者と文字を獲得し得なかった者との間に優劣の対立が生まれることを不愉快に感じています。


 小学校の漢字教育において、同じ漢字を一斉に学ぶという意味において筆順指導(「書き順指導」というほうがよい)の必要性は認めますが、学校教育の「すべて」が進学受験を核とする評価基準に照らされて、文字を習得する手段でしかない書き順すらも「正しい筆順」という認識で是認されていることは文字教育の貧困です。多すぎる漢字を適正に減らし、その学習の負担を減らし、文字固有の表現力に頼り過ぎずに文章を表記する技術や感性をこそ学ぶ必要があると私は考えています。
 たとえば、寂しい・淋しいのどちらかで迷うならば、「さびしい」(あるいは「さみしい」)と仮名で表記すればいい。「さびしい」という言葉の意味が文章の中でどのように使われているかのほうが、余程 重要なことです。


 このように、漢字制限の必要性を認めた上で、ショウガイについては「障碍」と私は表記しています。理由は、2つ。
 その1番目。「碍」という文字は、学習するに難しい文字ではない。
 その2番目。温暖・寒冷の熟語は、同じ意味の漢字を2文字連らねています。「障碍」も同じ仕組みです。どちらも、「じゃまをする。さしさわりがある」という意味の漢字です。注意深く考えて欲しいことは、ここには「評価」は一切無いということです。しかし、表外字だからとして、「碍」の代わりに「害」を当てましたが、「害」には明らかな評価があります。差し障りがあることは有害であるという意味です。私は「障害」を使わないのは、ここにおいてです。
 国語審議会では、漢字制限を設けるとき、文字1つ1つについて検討したはずです。その結論において、「害」を当てたことは、そのときの国語審議会が「碍」を「害」とすることに矛盾を感じなかったからでしょう。それは、政府の意思表明ということにもなります。
 障碍物競争は楽しい運動会のプログラムです。どこに「害」があるのでしょう? じゃまをさせるものを並べて遊ぶのです。電信柱を見上げると、電気のショートを防ぐために絶縁物としてガイシが使われています。ガイシは碍子と表記します。じゃまをするものという意味になります。障碍者と表記して何の問題がありますか。本人にとっては、障碍も我が身であって、「害」とするような十字架を背負いたいとは誰も思ってないはずです。
 超高齢化社会を目前にして今や、「福祉」に対する認識は大転換を迫られています。(※この記述をしたのは20年以上も前で、当時はまだ今日のような高齢社会到来を認識していた人たちは一部だった) 福祉は施されるものではなく、生きるための権利という認識がようやく広まってきました。そのような状況下にあって、ショウガイシャを「障害者」と表記したままでは、施す者と施される者の関係は変わりません。表現される文字の効果はときに絶大な力をもちます。ケンジョウシャたちの中には、障碍者の傷みを理解しようとしない人たちが少なからずいるのは現実です。その人たちにも「障害者」という文字は読めます。その読めるという効果が常に評価としての「害」の認識を与え続けることになる、と、私は思うのです。
 以上が、「障碍」と表記する私の説明です。

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