神戸こどもblog

保育士の資格がとれる専修学校「神戸こども総合専門学院」のブログです。六甲山の西、標高407m、豊かな自然のなかにあります。
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「寄り添う」ということ
 顔ぶれの決まっている定例の会議の席につくとき、私はいたずら心で、「さて、きょうはどこに座ろうかな……」と思う。こういう会議では、いつのまにか常連たちのあいだで"指定席"になってしまいやすい。私はそれを敢えて乱してやろうと思ってしまう。座る席を変えると、皆の顔が違って見えるのもおもしろい。私の参加する会議は円卓または「ロの字」型が多いので、お互いの顔が見えやすい。この事とは対照的で、指定席に座っていると、つい隣人と私語をしてしまう。
 指定席が常態になると、円卓の価値がいくらか失われる。向き合う相手より隣人と"仲良し"になりやすいからだ。「寄り添う」ということを考えてみようと思ったら、まずひらめいたのはこんな"寄り添い"だった。私は、こういう寄り添いを歓迎しない。(私がもっとも気を許している明石の「まち研」では、ほぼ"指定席"で、たまに気分替えで席を変えたりしている)
 
 「会議」のついでに言うと、時間の進行にしたがって、よくしゃべる人とそうでない人がいる。しゃべりたくない人が発言しないのは気にならない(皆が発言すべきという運営を私は好まない)が、しゃべりたそうな人が発言しなかったり、せっかく発言してもうまく言えなかったときは大いに気になる。さて、どうやって「寄り添う」か? 私は自分の主張をするよりも、「寄り添い」に見せかけた発言をするのが好きで、議論の運びを考えるようになる。議長を引き受けたときは、これがやりやすくなる。 こういう場合、代弁はいけない。主張は本人がすべきで、それをどう引き出すかが肝要なのだ。

  「寄り添う」って、おせっかいなのだろうか? 事実、私はそう思うこともしばしばだから。やり過ぎて、自分で悩む。
 「寄り添う」ということは、物理的に、肉体的に、"近づく"ということを意味しない。
 保育園で、1歳児・2歳児の部屋に入って、自ら寄り添っていったらあっと言う間に泣き声の大合唱となり、部屋を去らねばならなくなるだろう。じっとしていたら、子どもたちから寄り添ってくるのだ。一人が寄り添ってきたら、それに続く子がいる。そして、またそれに続く子がいる。
 私は「寄り添う」ことの本質は、このことがすべてを語っているように思う。
 
 「寄り添う」ことは積極的に何かをすることだ。1歳児・2歳児の部屋に足を踏み入れて、子どもたちに自分の姿を見せる。ここまでは実行しないと相手に存在感すら知らせられない。ここからが腕の見せどころ。一言では言えない(いやむしろ説明しにくいというか……)いろんなことを私は試みるが、もちろん控えめに。
 「寄り添った」結果を「待つ」。期待したことが起きるかどうか、その結果を待つ。「待ちの子育て」は何もしないことではない。やるだけのことをしたあと「待つ」ということだ。
 
 自然というフィールドでも、まったく同じことが言える。自然のなかでは「待つ」ということが、同時に「寄り添う」ことでもある。「ひたすら待つ」ことがじつは積極的な寄り添いになる。熟達したナチュラリストはこれを体得した人たちだと言える。
 
 親が我が子を「叱る」ときを考えたい。叱られたことがない子どもはいないだろう。どんな"よい子"でも、いつか必ず叱られる。叱られることで育つ。それは、なぜか?
 幼い子どもは叱られたとき、叱られた人のふところで泣く。叱る人は、自分のふところに戻ってきてくれると思うから、しっかり叱れる。これは見事な寄り添いの事例だろう。
 小学生になれば、ふところでは泣かない。高学年になれば、泣き顔を見せたくないだろう。それでも、叱られた人から遠くに離れない。だから、しっかり叱ることができる。
 この寄り添いの距離が測れなくなったら、しっかり叱れない。つまり、育ちに歪みが生じてくる。こうなってしまったら、寄り添いが出来るところまで元に戻るしかない、と私は思う。寄り添えない叱りは歪みを生むだけだ。
 
 「寄り添えない」ことは歪み事例だけだろうか? 「巣立ち」「別れ」「旅立ち」「死」──いつか寄り添えなくなる日が来る。「訣別」「闘い」も歓迎したいことではないが、選択肢に入れざるを得ないときがあるかもしれない。
 「寄り添う」ことは物理的な肉体的な距離ではないと思いたいけれど、寄り添いたいという甘えが弱い自分(私)を支えているのではないかと思うことがある。寄り添うことは他者への想いだけでなく、自らの生き様のかたちなのかもしれない。「寄り添う」ことは、むずかしい。
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