神戸こどもblog

保育士の資格がとれる専修学校「神戸こども総合専門学院」のブログです。六甲山の西、標高407m、豊かな自然のなかにあります。
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赤い鳥小鳥 ♪

 「働く男の背中」のF林さん(「先生」とは言わない、言ってはいけないのだ) は、そんじょそこらにいないクセモノ。素浪人…でもいいと思う。いきなり脱線。江戸の時代、安定した頃、やっぱり幕府(=官僚)はどこにも所属しない者の始末に困った。道場で励めば役人の端くれにしてやる、とでも思ったのかな?、浪人という存在は面倒だった。その素浪人がF林さん(以下、Fさん)

 ひょんなことから、「そのまま」見ることの話になった。目の前に現れる「その事実」の認識論だ。五感が大切なことはわかる。では、五感の一つ、視覚──「目」で使う言葉とはなぁ−んだ…… 感覚のことだから「ことば」で表現するのも確かめのはずだ。この問いで多い答えは「色」。「色」と言った人に目をつむってもらい、「では、赤・黄・青、緑・白、黒、こういう集まりを何という」と問い掛けると、目を閉じても「色」と答えられる。そう、そうなんです。「色」という言葉は頭でつかう言葉で、目で見なければわからない言葉ではない。一方、目をつむったままで、私が色紙を持ち、「私は何色の色紙を持っているか?」と訊ねても、目をつむったままでは答えられない。赤い色紙を持っていたとしたら、目をあければすぐさま「赤」と答えられる。そう、「赤」こそが、五感の一つ、目でつかうことば。

 じつは、私たちは、ろくに目の前で現れていることを見もしないで、あるいは無視して、あるいは先入観が邪魔して見えないまま、自己主張することが少なからずある。五感の重要性を認めながらも、それを身につけるのはむずかしい。

 赤い鳥小鳥
 なぜなぜ赤い
 赤い実を食べた

 白秋のこの詩(うた)が、Fさんとで話題になった。

 意を得たりとFさんは、弓削牧場であったこと を思い出した。
 牧場長「牛のミルクはなぜ白いか?」を牧場体験中の学生に問うた。
 誰も応えない。シーン。
 Fさんは、「白い実を食べた」と言葉を送った。
 それでも、静かなトキ(時間)が過ぎ去るだけだった。

 あーあー、むずかしいよね。
 牛のミルクが白い理由(わけ)はあるのかもしれない。でも、Fさんと私の属するお馬鹿さん班が持っている答えは一つじゃない。何通りもある。

 そう「白いから白い」。それじゃあつまらないから、「白い実を食べた」。

 学生一同、なんのことかわからず、シーン……



 サッちゃんはね サチコっていうんだ
 ほんとはね だけど ちっちゃいから
 じぶんのこと サッちゃんって呼ぶんだよ
 おかしいな サッちゃん

 この詩も同じことをいってる。
 目の前に現れたことを受け入れる。

 私とFさんは走るクルマの中で、この会話をしていた。
 ハンドルを握るはFさん。
 話に夢中になって、スピードメーターは40キロを切っている。
 後続のクルマが猛スピードで追い抜いて行った。
 Fさんはいつまでも巣浪人。



「寄り添う」ということ
 顔ぶれの決まっている定例の会議の席につくとき、私はいたずら心で、「さて、きょうはどこに座ろうかな……」と思う。こういう会議では、いつのまにか常連たちのあいだで"指定席"になってしまいやすい。私はそれを敢えて乱してやろうと思ってしまう。座る席を変えると、皆の顔が違って見えるのもおもしろい。私の参加する会議は円卓または「ロの字」型が多いので、お互いの顔が見えやすい。この事とは対照的で、指定席に座っていると、つい隣人と私語をしてしまう。
 指定席が常態になると、円卓の価値がいくらか失われる。向き合う相手より隣人と"仲良し"になりやすいからだ。「寄り添う」ということを考えてみようと思ったら、まずひらめいたのはこんな"寄り添い"だった。私は、こういう寄り添いを歓迎しない。(私がもっとも気を許している明石の「まち研」では、ほぼ"指定席"で、たまに気分替えで席を変えたりしている)
 
 「会議」のついでに言うと、時間の進行にしたがって、よくしゃべる人とそうでない人がいる。しゃべりたくない人が発言しないのは気にならない(皆が発言すべきという運営を私は好まない)が、しゃべりたそうな人が発言しなかったり、せっかく発言してもうまく言えなかったときは大いに気になる。さて、どうやって「寄り添う」か? 私は自分の主張をするよりも、「寄り添い」に見せかけた発言をするのが好きで、議論の運びを考えるようになる。議長を引き受けたときは、これがやりやすくなる。 こういう場合、代弁はいけない。主張は本人がすべきで、それをどう引き出すかが肝要なのだ。

  「寄り添う」って、おせっかいなのだろうか? 事実、私はそう思うこともしばしばだから。やり過ぎて、自分で悩む。
 「寄り添う」ということは、物理的に、肉体的に、"近づく"ということを意味しない。
 保育園で、1歳児・2歳児の部屋に入って、自ら寄り添っていったらあっと言う間に泣き声の大合唱となり、部屋を去らねばならなくなるだろう。じっとしていたら、子どもたちから寄り添ってくるのだ。一人が寄り添ってきたら、それに続く子がいる。そして、またそれに続く子がいる。
 私は「寄り添う」ことの本質は、このことがすべてを語っているように思う。
 
 「寄り添う」ことは積極的に何かをすることだ。1歳児・2歳児の部屋に足を踏み入れて、子どもたちに自分の姿を見せる。ここまでは実行しないと相手に存在感すら知らせられない。ここからが腕の見せどころ。一言では言えない(いやむしろ説明しにくいというか……)いろんなことを私は試みるが、もちろん控えめに。
 「寄り添った」結果を「待つ」。期待したことが起きるかどうか、その結果を待つ。「待ちの子育て」は何もしないことではない。やるだけのことをしたあと「待つ」ということだ。
 
 自然というフィールドでも、まったく同じことが言える。自然のなかでは「待つ」ということが、同時に「寄り添う」ことでもある。「ひたすら待つ」ことがじつは積極的な寄り添いになる。熟達したナチュラリストはこれを体得した人たちだと言える。
 
 親が我が子を「叱る」ときを考えたい。叱られたことがない子どもはいないだろう。どんな"よい子"でも、いつか必ず叱られる。叱られることで育つ。それは、なぜか?
 幼い子どもは叱られたとき、叱られた人のふところで泣く。叱る人は、自分のふところに戻ってきてくれると思うから、しっかり叱れる。これは見事な寄り添いの事例だろう。
 小学生になれば、ふところでは泣かない。高学年になれば、泣き顔を見せたくないだろう。それでも、叱られた人から遠くに離れない。だから、しっかり叱ることができる。
 この寄り添いの距離が測れなくなったら、しっかり叱れない。つまり、育ちに歪みが生じてくる。こうなってしまったら、寄り添いが出来るところまで元に戻るしかない、と私は思う。寄り添えない叱りは歪みを生むだけだ。
 
 「寄り添えない」ことは歪み事例だけだろうか? 「巣立ち」「別れ」「旅立ち」「死」──いつか寄り添えなくなる日が来る。「訣別」「闘い」も歓迎したいことではないが、選択肢に入れざるを得ないときがあるかもしれない。
 「寄り添う」ことは物理的な肉体的な距離ではないと思いたいけれど、寄り添いたいという甘えが弱い自分(私)を支えているのではないかと思うことがある。寄り添うことは他者への想いだけでなく、自らの生き様のかたちなのかもしれない。「寄り添う」ことは、むずかしい。
ひらがな書きの「きょうだい」
 漢字の書き取りテストで「きょうだい」は「兄弟」と書かなければ正解が得られない。「姉妹」は「しまい」と読むのが"正解"で、「きょうだい」と読ませる事例も多いが、小中学生のテストではバツになってしまう。
 ちなみに、「姉弟」「兄妹」は何と読むのでしょう。"正解"は、「してい」「けいまい」です。しかし、そんな言葉を耳にしたことはないよなあ。

 わたしたちの日常の会話では、兄弟も姉妹も姉弟も兄妹も全部「きょうだい」だ。私は、漢字で書かれたこれらどれも「きょうだい」と読んでも間違いでないと言いたい。漢字の意味は、その表記で用は済んでいる。読み方は、言わばどうでもいい。「しまい」「してい」「けいまい」は音読みを忠実に再現しているにすぎない。読み方はどうであっても事実は変わらない。

 家族構成を知らない人物に向かって、「あなたの〈きょうだい〉は何人?」と尋ねるとき、〈きょうだい〉は仮名書きするのが適切だ。小学生の高学年ならば、「あなたの兄弟は何人?」と書かねばならないのだろう。「あなたのきょうだいは何人?」と書けば減点されるかもしれない。

 「〈〉」をつける必要もない。「あなたのきょうだいは何人?」で十分だ。文学表現で仮名書きを強要する必要はなく自由だ。だが、「きょうだい」を何が何でも漢字で「兄弟」と書かねばならないのはもう終わりにしたい。最近、新聞記事でも仮名書きの「きょうだい」をよく目にするようになった。うれしいことです。
ことばの保守性と変革。たとえば、一人称。
 「おはよう♪」と挨拶すれば、「おはよう♪」と返される。ことば(会話)は、ことばを掛ける相手に通じることを前提として語られる。これを仮に「ことばの保守性」としておく。しかし、「ことば」を論じるときは、しばしばそのことばのつかわれかたの変更を求めたり、差異を強調することになる。私もこのブログで「ことば」をカテゴリーとして扱うとき、"変更"や"差異"に触れることになるだろう。人は、他人から、ことばの扱いについて、とやかく言われて快いとは思わない。ときには、強い不快感を伴う。それは、ことばには保守性があり、ことばは人格のひとつであるからだろう。
 
 私は「ことばの保守性」を支持している。ことばのつかわれかたの扱いで戸惑うとき、それは自らの保守性を問う作業が始まったからだろうと思う。
 
 ひとつ例を示そう。自分の呼称、つまり一人称について考えてみる。幼い子どもは、他人が自分を呼ぶその言葉をそのまま自分の呼称につかうことが多い。「あっちゃん」、「まーくん」、等々。小学生になればやがて、「わたし」や「ぼく」に変わる。男の場合、「ほく」のままで行くか「わたし」と変更するか、自問自答した経験のある人は多いと思う。ほかにも「おれ」「わし」「おいら」などの一人称があり、その呼称がふさわしいのかどうか考えたり悩んだりした経験はないだろうか?
 親の呼称もそうで、「おかあちゃん」から「おかあさん」へ、「私の母親です」、「私の母です」等々、ことばの言い換えにはストレスがあっただろうと想像される。
 
 だから、私がこの「ことば」のカテゴリーで、ことばについて論じる意図は、こういう考え方もある──というゆるやかな気持ちで読んでいただけたら幸いである。
だれでも出来る文章のコツ
 1. 打とうとしている「、」(テン・読点)は「。」(まる・句点)にならないか?
●説明……1つのセンテンス(文)をできるだけ短くする。

2. 飾る言葉は、飾られる言葉に近づける。
●説明……修飾語と被修飾語は隣同士に、という言い方をしてもよい。「、」で区切られる「句」も同様、関連のあるものは近づける。それだけに文は短い方が扱いやすい。

3. 見たこと、考えたこと、思ったことを、そのまま書いてみる。
●説明……しかしじつはこれは大変むずかしい。このことがスラスラ出来たら、もう文章家の仲間入りです。

4. 「思った」ことを書くのだから、「思いました」で結ばない。
●説明……文章はそもそも思ったこと考えたことを書くものです。なので、文の末尾に「思った」や「考えた」を多用しない。

5. 「しかし」「ところが」「そして」などの接続詞を使わないで書いてみる。
●説明……意外とこれらは使わなくても書ける場合が多い。試してみて。文章にリズムが出てきます。


6. 「の」の連続使用をしない!
●説明……これを練習すると文章がとても上手くなります。書く側は「の」をつい連続で使ってしまうが、読む側には読みにくい文になる。

7. こだわりを捨てる。
●説明……「書きたいこと」「言いたいこと」があって書き始めると、それが文章を書くしばりになってきます。文章を書くということは、書きながら自己を対照化することでもあります。ときには、「言いたいこと」へのこだわりから離れると何かを発見するかもしれません。

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