神戸こどもblog

保育士の資格がとれる専修学校「神戸こども総合専門学院」のブログです。六甲山の西、標高407m、豊かな自然のなかにあります。
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本校のユニークさを伝えたい




***

やっぱり
なんといっても
少人数制である
ということ

保育の仕事は芸術的です。
子どもが望んでいること、
そして伝えたいことは
本人でも定かでないことが
多いのです。

そのことを表情や
声の調子や
体全体で表している。

それを的確に気づき、
本人自身が表現できるように
してあげられれば
本人自身が嬉しい!

そして何か今まで気づかなかったことを
子どもが発見し
その発見に保育士が驚いていく。
それはまるで
不思議でやわらかで壊れやすい
共有的世界。

保育界でよく知られる津守真さんが
子どもに寄り添おうとする人間は
「知識や経験の網の目」
で子どもを捉えてはならない。
いままでの自分の持てるものを
捨てなくてはならない
といわれている。

その間合いが大事である。
そのような間合いを伝えるのは
大人数では出来ない。

本校の授業は人数が少ないため
毎回がゼミに近く、
毎回が楽しいという講師が
多いのは
そのせいだと思う。




***

現場からの
ユニークな生きた話
が多い

教科書どおりの話は「冷凍ものに近く
現場からの経験談は言わ」ば
「昼網の魚」のようなもの。

子どもも親も現実の流れのなかで
どんどん変化している。
しかし変化しないもの、大切に伝えたいものは
数知れずある。

長年の経験の中からどうしても
伝え引き継いで欲しいもの
そのような教科書に書かれていない
経験中の経験が
「学問する心」
の土台であり
真のモチベーション



***
就職の求人は多く、
今あちこちから声がかかり
うれしい悲鳴を上げています


本校は単に子どもが好きで
保育士にさえなれば どこでもよい
などというサラリーマン的保育士ではなく、
自分なりの理想を持ち
将来は主任になりうる人材を志し、
可能なら園長にでもなれるような
意気込みを学生に持って欲しい
と思っています。

志の高い学生が近畿だけでなく、
福井や、四国に就職し、
がんばっています。
以前は、北海道からも求人がありました。

もちろん、就職先は
保育園だけでなく、
養護施設や障がい者施設等にも
内定が決まり始めています。




***

本校の入学生には
4大卒業生が少なくありません。

残念ながら大学の修士取得でも
就職の実績が上がっていないのが実情です。

広い視野が必要なことは
万人が認めるところです。
しかし大学は本来
その広い教養の上に
専門の勉強が必要ですが、
100人近くの授業では座学が
中心にならざるを得ません。

大学卒業だけでは
なかなか正職につけず
アルバイトのみでは
将来が心配で、
決断して入学してきた
学生の例は
いかに国家資格が大事かを
示しています。

わずか、2年で保育士資格が
取れるのです。




神戸こども総合専門学院

 学院長 田中 英雄



障がい児に教えられて (2)

自分から手をつなぎ歌った、さとる君


 1年近くたったある日のこと、純子が公園から飛んで帰ってきました。
 「さとる君が歌ったのよ! 聞こえるか聞こえないかぐらいの声だったけれど。しかも、私の手を自分で握って!」
 これはうれしいショックでした。

 さとる君は、ときどき「アルクルサン、アルクルサン」という妙な言葉を発するだけで、手をつなごうとすると逃げてしまっていた。公園でもウロウロしているだけ。保育室では、好きな本を眺めたり、水道の水をザーザー流したりで、人間にはあまり興味がないふうでした。他人に心を開くのには時が熟していなかったのでしょう。



(本が好きだった 卒園直前の さとる君)


 純子の一報は大事件と言ってよかった。純子のほうから手をつなぐことはあっても、彼のほうから手をつないでくることはなかったから。
 ところがそのときは、小さな声で、「♪オーテーテーツナイデ…」と歌ったと、そういうふうに聞こえたと言うのです。

 このことは、絵にも変化が表れた。なんと、自動車に運転手がちゃんと乗っていた! それだけでなく、彼が描く地域の絵で、家々の中に人が描かれるようになった。

 隔離された状況の中で、関係性は育ちません。関係性が育たない中で言葉は生まれないのです。ましてや絵になることはありません。


子どもが教師


 「共に育つ」を言い換えれば、Mさんのように「大人は何もしないでください。子どもが教師ですから」ということになる。まさにそのことが証明された出来事だった。 教育の現場における「何もしない」ということの意味をみごとに教えられた忘れられない事件でもあった。



さとる君の住む町
(兵庫運河。 左手向こうに、ヴィッセル神戸の本拠地、サッカー場の大屋根が見える)


 さて、「共に育つ」ということが、ハンディキャップのある子にも・ない子にも良い影響を与えると、明瞭なかたちで私たちはやがて経験するようになります。
 それは、高度難聴の子が入園してきて、垂水区にある県立の難聴児の学校との相互交流が週1回行われるようになったことです。

 初めて10名ぐらいの集団が当園にやってきて、各クラスに分かれて入ってきたときのことです。
 訪問してきたその子たちの中には、耳のかたちがつぶれ顔がひきつったり顔が真っ白な子もいたからでしょう、当園の2〜3歳の子が顔を見た途端に、「オバケや!」と言いました。この反応に双方の職員はギクリとした。

 けれども、そんなひどい言葉が発せられたのは初回ぐらい。日を重ねるうちに消えていました。
 耳がつぶれていたり、少しぐらい顔がゆがんでいても、交流を続けているうちに緊張がなくなり、うれしいときはニッコリ笑顔が出るようになったからでしょう。

 先方の職員たちが話されるには、当園の子どもたちが大きく元気な声で歌ったりすると、難聴児たちのからだがリズムに合わせて揺れているというのです。この様子を見られて驚かれていました。

 私たちも5歳児を連れ、月1回の交流に行きました。クラスの人数が5〜6人ぐらいで、設備などはとても良く、広々としていいのですが、活気がないのです。声の練習は、大太鼓をたたいて (低音は難聴児でも聞こえやすい) 練習するそうですが、リズムに合わせてからだをゆするようなことは起こらないと、先方の教師は言われていました。



(来月、ケアホームに入所が決まっている現在のさとる君)



隔離しない育ちあいこそが差別感を生まない


 子どもが持っている元気も、互いに隔離されているようでは死んでしまい、関係性が育たないばかりか、社会全般にひそんでいる差別感がいつのまにか子どもの心にひそやかに侵入してしまうのです。

 差別に対して「概念」で「差別したらアカン!」と言っても、人間同士の温かい交流がなければ、それはただの言葉に終わってしまいます。

 乳幼児のときから、土や水や草花に囲まれ、その中で泥だらけになって、笑ったり、泣いたり、けんかしたりして育つ感覚の成長期に「共に」すごすことで、ハンディキャップのある子も「人間や!」ということが、からだの芯に定着します。

 相互の共感の土台なくして「概念」のみで「差別するな!」と教えても、ただ差別語を言わないだけの消極性にとどまることがしばしばです。

 たとえハンディキャップがあろうが、彼らは同じ人間であり、悲しさや喜びを人一倍感じていることをからだでわかっていれば、「差別しない」ということから進んで、ハンディキャップのある者を差別する側にある自分を識り、その自分の非を悟り、彼らに謝りつつ、「共に」生きて行くことを実践していく人間に育つと私は思います。




(今も本が好きなさとる君は切り抜きと書き込みが日課)


(切り抜きに溢れかえるさとる君の部屋)




 乳幼児の時代の統合保育がいかに重要か、そしてそれが保育の原点であることを教えてくれたのは、さとる君を初めとして私たちの園にその後つぎつぎに入園し、卒園していったハンディキャップを負う子たちだったのです。

 教えるどころか、導かれ、目を開かされてきたのはじつに私自身でした。 (完)


障がい児に教えられて (1)



アーティストさとる君のデスク



神戸こども

障がい児に教えられて (1)

 私たち夫婦(田中英雄+田中純子)が無認可の保育園を始めた頃は、ハンディキャップのある子のことは視野に入っていませんでした。子どもたちに自由な遊びの空間を提供し、仲間たちと共にすごす中で、のびのびと成長していかなければ大変なことになる。大人に管理され、テレビ漬けになり、刺激的なものには衝動的に反応しても、やがて無感動で自分が心底から何がしたいのかわからない青少年が日本中に満ち、やがて社会そのものが病んでいくだろうと恐れました。


(六甲山で撮影 2011.7)


初めての出会い


 保育園を始めてわずか1か月ぐらいだった。
 初冬の肌寒い朝、私たちの保育園や私の人生にとって大きな出会いになろうとは思わなかった。さとる君のお父さんが訪ねて来られて言われました。

 「お願いがあります。息子をこの保育園に入れてください。じつは4歳になるのに言葉もしゃべれず、ほかの子と遊べない自閉的な子です。明らかにハンディキャップかあります。しかし、なにもしてもらわなくてけっこうです」

 私は驚いた。正直にいうと、ハンディキャップのある子たちに対して偏見と差別感がありました。今から考えてもなぜ差別感があったのか不思議に思う。

 私自身、小学校1年生から6年生までハンディキャップのある子と同級生でした。一風変わった子という程度で、むしろクラスの人気者。担任の教師も温かい目で接しておられた。6年間、彼に対して「障害児」などという言い方は一度も耳にした覚えがない。今のように「なかよし学級」に隔離されたこともないが、反面、子どもたちがだんだん、「変な子やなあ、なんでやろ」と感じ始めたことに、どの教師も真正面から取り上げようとしなかったと思う。

 思えば残念なこと。子どもたちは的確に問題を感じる。一方、正確に理解することは出来ない。もし、私の小学校時代、一人の教師でもまともに問題を把握し、子どもたちに事実を話し、意識化し、ハンディキャップがあっても人間として劣るものでなく、その子なりの個性があり、けっして偏見にとらわれず、仲良くするようにと話し合っておれば、わけもわからずいつのまにか差別感をもってしまうことはなかっただろうと、残念な気がする。


(六甲山で撮影 2011.7)


なにもしてもらわなくてけっこうです


 そんな差別感を心の底にひそませたままの私の心を動かしたのは次のようなわけです。

 訪ねて来られたMさんの真剣さにうたれながらも、腑に落ちず尋ねた。
 「なぜ、こんなに小さく暗く経験もないところを訪ねて来られたのですか?」
 彼は言った。
 「ハンディキャップのある子ばかりを集めた施設には行かせたくないのです。なぜなら、教師は大人ではなく、子どもだからです。どこの保育園も幼稚園も入れてくれない。おたくのポスターには『子どもに自由を!』と書かれていました。きっとここなら入れてくれるだろうと思いました。なにもしてもらわなくてけっこうです」

 一気にしゃべられたお父さんの言葉が私の心を動かし始めた。

 「なにもしてもらわなくいい」という謎めいた言葉を反芻しながら、手がかかるやろなあと思い悩んだ。
 純子に相談したら、「ええんやないの」と快く引き受けてくれたので、内心驚いた。

 やがて、マンツーマンでやらなければならないことがわかり、二人でやっている保育園では手が足りないので、「通信」を作り、あちこちに依頼して50万円のカンパを集め、一人の保母さんに来ていただくことになった。


(当時の私 中央、サングラスの男)


保育室になかなか入れなかった


 さて、入園したさとる君は門の中に入ることは出来ず泣くばかり。純子が1か月ぐらい毎日、前の公園で連れ歩いていた。雨の日も風の日も。門の中にようやく入れるようになってもまだ、玄関には入れず、門と玄関のあいだの小さな空間でさらに1か月をすごした。

 少しずつ少しずつみんなのなかに入ってこれるようになった。
 保育室に入ってきても、みんなと何かが一緒にすぐ出来るようにはならなかった。部屋にいることが不安でなくなってきてからは、毎日、門のところまで出ていき、前を通るいろいろな自動車に興味を持ち、自動車の絵を上手に描いていた。でも、何枚描いても、クラシックカーのような素敵な自動車に運転手らしきものが描かれることはなかった。

(つづく)

神戸こども

夏休み中家から外に出ない子どもたちに夏季学校を!
けっこう今の子どもたちは不自由しているな!と思う。一番気になるのはこの夏の30日ぐらいは田舎に帰るかキャンプに行くぐらいは別にして、ほとんどて家にいるらしい。保育園の卒園児の親に電話してみると3人が3人ともそうだった。親が見るに見かねて公園に行って遊んできたら?と言うと「知っている子が居なかったら詰まらんもん。」と言うらしい。ところで私が知っているこの子のはー昨年までは神戸市の学童保育に行っていた。4年生からは対象からはずされるが、ヴィジターとして勝手に行って遊んでいることは可能なのに行こうとしない。勧めても行きたがらない。あれだけの期間(小1から小3まで)学童保育に行っていながら、何故4年生になった途端に行きたがらないのか?だが彼だけではなくたいがいの子がそうだった。
 昨年そのことを知り俄仕立ての須佐の夏季学校を開校した。ジャムをつくったり、ミニ畑をしたり、面白いほんを読んだり、昼からは公園で遊んだりしただけのことだったけどよほど良かったらしい。今年も!と言われているが当てにしていた女性のスタッフがこれない。どなたか来てくれないだろうか!勿論アルバイト代は払いますよ。連絡はちびくろ保育園(078−651−6151)か学院まで(078−591−5879) お陰で昨日よいかたが来てくれることになりました。有難う。
 
今の若者に想像力がない?という「批判」について
 われわれ大人はよく上記のような言葉を口にする。その根拠は指示待ち態度だとか、率先して仕事をしないとか、そういう日頃の悩みがこのような言辞を出させてしまうのだろうと思うがどうだろう。それを「想像力」という言葉で表現されると考えこんでしまう。なぜならいい加減年を食っているくせに自分には大した想像力はないし、今の若者たちの生活環境をつくって来たのはわれわれ大人だから何かそんな言い方は酷だと感じてしまう。
 就職ゼミの時間に先日NHK放映していた釧路の獣医師が飛べなくなってしまった鷲を再び野生に戻す話を材料に彼らの考え方を聞いてみた。場面設定として、獣医師は内臓障害で食べることの意欲喪失中の鷲を長いガラス箱の中に入れて保護して、この鳥の眼の前に餌を置く。しかし鳥は腰もやられていて先ず目の前の餌に立って近かづくこともかなわない。君たちならどうする?
 学生たちの考え方はよくにていてどの意見も将来の保育士らしく優しいものだった。チュウブで栄養剤を口から流し込む、あるいは餌を間近に置きだんだん立つように少しづつ遠ざける。内心意外に現実対応力があるんだと思いつつ某獣医師の対処の仕方を話した。彼は絶対に餌を近づけはしない。優しい配慮がかの鳥の野生への復帰を実現しないからである。下手すればそのガラスの箱の中で命は永らえてもそこから出て大空へ羽ばたく意欲を喪失しかねないからである。
 われわれの世代は実はこのステキナガラスの箱を作り上げ自分と子どもたちとこの箱の中で暮らしている。想像力を持つとはこのガラスの箱からいで立つことではないかと思う。想像力がもしも体験世界のことであるとすると体験世界をガラスの箱の中に閉じ込めたのは実は我々世代だから若者を責めるというのは自分を責めることでどうにも苦い思いにさいなまされてしまう。
 学生たちに君たちの保育は鷲をガラスの箱の中におらせることなのか、それとも野生に戻す保育士になることなのかと問い続けることが自分の仕事だとは思う。が、しかし何処か重い気分がする。大江健三郎が「ヒロシマ ノート」でなにを言いたかったのかと思い出そうとしている。

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